白山比咩神社 石川県白山市三宮町(本宮)
石川県白山市白峰(奥宮)
式内社(加賀国石川郡 白山比咩神社)
加賀国一宮
旧・国幣中社
現在の祭神
白山比咩神社白山比咩大神(菊理媛神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊
[配祀] 三宮媛神
奥宮・白山奥宮白山比咩神
摂社・大汝神社大己貴命
摂社・別山神社大山祇命
摂社・荒御前神社荒御前大神・日吉大神・高日大神・五味島大神
本地
妙理大菩薩十一面観音
大汝阿弥陀如来
別山大行事聖観音
三宮千手観音
末社(奥宮)児宮如意輪観音
末社(本宮)荒御前毘沙門天
滝宮不動明王
禅師宮地蔵菩薩

「神道集」巻第六

白山権現事

そもそも白山権現とは、北陸加賀国白山の雪山に跡を垂れ給へり。 かの御山と申すは、千歳の寒氷氷結て解けず、四節の名花は一時に競ひ開く云々。
[中略]
今顕れ始めたてまつりし事に付て両説有り。 一の記には、元正天王の御時、霊亀二年丙辰年、白山権現は顕れ始めたまへり。 この帝は日本四十四代、女躰なり。 諸国国分寺はこの御時より始れりと云々。
一の記には、光仁天王の御宇、宝亀二年辛亥年、泰澄大師これを顕したてまつりたまへり。 この帝は人王四十九代にて御在す。
[中略]
およそ白山権現とは、大御前は十一面観音なり。
小男地は本地は阿弥陀なり。 因蔓陀羅の図なり。
別山大行事は本地は請観音なり。
五人の王子御在す。
太郎は剣ノ御前、御本地は大聖不動明王なり。 この仏はこれ三界接領の悪魔降伏の生生にして加護の尊なり。
[中略]
次郎王子は本地虚空蔵菩薩なり。 香集世界には補処の大士、花翼国土定恵の御弟子なり。
[中略]
三郎王子は本地地蔵菩薩なり。 この仏はこれ報恩経に莚には、補処の大士なり。 無仏世界には引導の上首なり。
[中略]
四郎王子は毘沙門天王なり。 毘沙門の本地は文殊なり。 文殊は三世の覚母なり。
[中略]
五郎王子は本地は弥勒菩薩これなり。 この仏はこれ賢劫第五の如来、当来三会の教主なり。

「白山之記」

加賀の国石川郡味智の郷に一つの名山あり。 白山と号す。 其の山頂を禅定と名づく。 有徳の大明神住す。 即ち正一位白山妙理大菩薩と号す。 その本地は十一面観自在菩薩なり。 一間一面の宝殿を建立して、五尺金銅の像を安置す。 殿の前に一尺八寸の鰐口を繋けたり(末代聖人の請に依り、禅頂法皇の御願なり)。 又長さ一丈の錫杖を立てたり(同じ請、同じ御願なり)。
東に社あり。児宮と号す。 如意輪の垂迹なり。
西に一の社あり。 別山の本宮なり。
北に並て高峯峙つ。 其の頂に大明神住し、高祖太男知と号す。 阿弥陀如来の垂迹なり。 一間一面の宝殿を建立して、五尺の金銅の像を安置す。 其前に一丈錫杖を立てたり(末代前の如し)。 一尺八寸の鰐口を繋けたり(願主は越前国足羽に住む証意なり)。 香呂一枚(願主は前の如し)。
南に十数里去りて高山あり。 其の山頂に大明神住し、別山大行事と号す。 是れ大山の地神なり。 聖観音の垂迹なり。 一間一面の宝殿あり。 五尺の金銅の像を安置す。 殿の前に錫杖を立てたり(末代前の如し)。 一尺八寸の鰐口を繋たり。 香呂一枚(前の如く証意なり)。
此れを白山の三の御山の御在所と名づく。

後に峙つ一つの少高山は、剣の御山と名づく(神代のミササギなり)。 是の麓に池水あり。 翠池と号す。 たまたまその水を得てこれを嘗むれば、齢を延ぶる方なり。
大山の傍に玉殿あり。 翠池より権現出生し給ふなり。
西に小社あり。 別山の本宮なり。 権現に譲り奉り、南山に渡り給ふなり。
池の西に深き谷あり。 雪積りて未だ曽より消え滅びず。 これを千歳谷と名づく。
谷の南を竜尾と名づく。 その麓に泰澄大師の行道の跡、四百有余歳を経と雖も、その跡に草木生へず、聖跡新たなり。 もしこれ大師入滅の後と雖も、常に行じ給ふに、凡眼及ばざるか。 即ちかの山は、泰澄大師行じ奉り顕はし給ふなり。
池上に一岡あり。 稲倉峯と云ふ。 或は大師の縛石とと云ふ。
又一峯あり。 皮籠峯と云ふ。
凡そ案ずるに、山の躰たらく、震旦の五台山に異ならず。 五台は大聖文殊の栖宅の地なり。 白山は観音薩埵利益の砌なり。 一度清涼峯を践めば、必ず文殊の利益に預り、一度白山に攀づる類、観音の冥助を疑はざるものか。

[中略]

御在所の東谷に宝池あり。 人跡通せず。 唯だ日域の上人あり、其水を汲む云々。 其味八功徳を具すと云ひ伝へたり。 風吹かずと雖も俄に白浪を畳み、天晴れて静かなれば忽ちに金光を放つ。 或は空中に仏頭の光を顕し、或は谷に地獄の相を現ず。 これ十界互ひに顕へ、善悪並びに現ずるか。
太男知の麓の磐石の上に泉水あり。 上道の人其の水を受け喉を助く。 もし初参の輩知らずしてこれを望み、これを汲めば、尺水忽ちに大浪を立て、その水悉く石上より振失ふ。 人これを見て大いに驚きて発露懺悔すれば、忽ち水盈満して元の如し。
其の石の下の泉の北に一の宝社あり。 不動明王を安置す。
其の東に一の山あり。 其色極めて赤し。 火の色に似たり。 全く余山に似ず。 是を火御子峯と号す。 上道の人に扇を進り、扇御峯とも云ふ。
其下より沙峯を下り七輿下り畢りて、大磐石の泉水あり。 玉殿泉と名づく。 水勢幾ばくならずと雖も、参上の人数千これを汲むと雖も水失せず、大雨下ると雖もその水増さず。
又山頂に池あり。 雨池と号す(奇異、石の泉水の如し)。 傍に堂宇あり、室一宇、三所の御躰を宝社を安置す。
其を下て幾ばくならずして滝あり。 高滝と号す。 人通ること無く、その長幾ばくかを計れず、万仭を計る。 その滝凡愚の計る所にあらず。 浄水の落ち下る形、白雲の聳くが如し。 赤光しばしば現じて明王の火炎かと疑ふ。 これを見て涙留まらず、旡始の罪障自ら滅するか。
其の次の石室を立ちて坂を下れば、一の岳あり。 藁履御峯と名づく。 上道に藁履を進る。 小社ありて、多門天を安ず。

次に又一つの霊験ある宝社あり。 檜新宮と号す。 垂迹は禅師権現にして、本地はこれ地蔵菩薩なり。 建立の人は乃美郡軽海郷の松谷澄に住む如是房と言う人なり。 崇め奉る後二百歳に及べり。 錬行の輩、此の所に来集して精進し、この宝社に勤行す。 夏衆の勤行、注し尽くことかたし。 五月二十日ころより始りて八月彼岸に至ちて終る。 三時の懺法は、七月十七日より同じく二十三日夜半に至る七ヶ日夜程、花香の燈を断たず、不断の法花観音経大般若経一部を転読し奉り、舎利供一座曼陀羅供を供養し奉る。 地蔵会は二十四日朝の勤仕なり。
宝社二宇あり。 一宇は小白山大山御躰御坐し、一宇は太男知禅師権現御躰にして金銅多く御坐す。 閼伽の器十二膳、鈴独鈷五胡、十部の法花経、大般若一部、紺泥の金光明経、両界曼陀羅各一鋪、香呂一枚、鰐口一つ、隨求の形の木螺一つ。 堂は六間二面、一宇の上房は五間二面、政所は五間、美乃蓋繋けは三間、一宇の世間の具は巨多なり。 堂には舎利塔二基に舎利二粒あり。 金迦羅・勢多伽各一躰これを安置し奉る。
これより一里下りて、壺の水を汲む。 道の下向の人の料なり。 而してその水を汲む道の右に一の大石あり。 高く峙ちて往復に煩ひあり。 ここに行尋と号し、塩絶する行人あり。 かの水を汲むに峙つ石煩ひあるが故に、咒力を以てこれを加持するに、金剛童子この石を投げ、その石道の辺にこれあり。 その後、護応石と名づく。 上下向の人、皆これを見て手をこれに触れ、願ひて云、たしかに金剛童子の御手を触れ給ふ石なり、願はくは得脱の縁となりたるかと云々。 御山の霊験は殊勝の故に、行人の咒力は莫大なるものか。 凡そこの行尋は五の不思議を現ずる行者なり。
次に坂を下り畢れば、一の王子あり。 両神と云ふ。 其の神は蛇躰王の垂迹なり。
次に宝社あり。 加宝と名づく。 虚空蔵菩薩の垂迹なり。
次に大河の上に大縄を以て両岸にこれを結び付け、轆轤を構ふ。 人を乗せてこれを渡す。 葛籠の渡と名づく。

[是ヨり中宮の分なり] 又一の勝地あり。 崇山八方を周りて、形は蓮華の葉に似たり。 地勢峙ちて三岳の如し。 宝社其の上に立つ。 是を笥笠の中宮と号す。 本地は如意輪なり。 神殿は三間一面、拝殿は五間三面、彼岸所は七間二面、又小社は五所なり。 又七間二面の講堂あり。 本仏は大日如来なり。 五尺の洪鐘これあり。 又三間一間の殿あり。 又新宝殿三間一面なり。 金峯山・小白山・不動山御坐す。 三間四面なり。 常行堂は、本仏は阿弥陀なり。 三間一間なり。 法花三昧堂は、本仏は普賢菩薩なり。 三間一面なり。 不動堂あり。 夏堂あり。 鐘楼あり。 冬見の子孫は次第の執行を伝ふ。 当時十一代の守目兼延なり。 春見の子孫は次第の神人なり。
荒御前中宮の下に橋あり。 一橋と名づく。 その岸高くして、未だ何十丈なるか計れず。 これを渡るに余念なく、敢へて横目せず、偏へに権現を念じてこれを渡る。
其の次に社あり。 酒殿と号す。 大瓶の跡あり。
又橋あり。 濁澄橋と名づく。 かくの如く山内に惣て橋十所にあり。 躰たらく前の如し。

[此より佐羅宮の分なり] 又一の宝社あり。 佐羅大明神と名づく。 本地は不動明王なり。 天元五年(壬午)始て宝殿を造る。 小社(普賢文殊)は早松・並松(米持金剛童子なり)なり。 台子の滝六所の御子あり。 本仏は大日如来なり。 長保元年(己亥)(二宇あり。五間二面なり。講堂一宇これを造り始む)。
又一社あり。 六所堂と名づく。 二宇は温屋なり。
又一社あり。 境明神と名づく。 小豆沢は平岩なり。

[是より別宮の分なり]
又宝社あり。 三間一面。 禅頂別宮と名づく。 拝殿は五間二面。 渡殿は三間。 小社二宇あり。 五間二面の講堂あり。

一 白山本宮(本地は十一面観音なり)は霊亀元年に陮他に現じ給ふ。 殊に勅命ありて、四十五宇の神殿仏閣を造立せらる。 若干の神講田を免じ奉られ、鎮護国家の壇場と定め置かる。 嘉祥元年(戊辰)なり。 凡そ公家の造り替への屋々は、宝殿と拝殿と彼岸所なり。
本宮の社に、政所あり。 大倉・本所倉・傍官倉あり。 荒御前(本地は毘沙門なり)・糟神・滝宮(本地は不動なり)あり。 おのおの宝殿は三宇なり。 拝殿も同じ。 祓殿あり。

禅師宮(本地は地蔵なり)に、宝殿・拝殿あり。 講堂・剣の講堂・西堂・東堂・十一面堂(法花常行堂)・新十一面堂(五堂)・馬頭堂・新三昧堂等あり。 御内には八堂なり。 鐘楼・武徳殿・五重塔・四足門・廻廊等四十余の舍は屋内なり(委しくは造営の注文にこれあり)。

小神の分(九所の神の分なり)は、不動天(和佐谷にこれあり。宝殿と拝殿あり)・岩神(馬場谷にこれあり)・三戸明神(船岡平等寺境にこれあり)・岩坂(宮尻にこれあり)・弓原(井口にこれあり。糟神なり。白山にこれあり。異説これに入る)・志津原明神(山内の広瀬にあり)・高峅(能登鈴モズノ白山にあり)・佐那武(大野庄にあり)・能生白山(越後にあり)なり。

凡そ本宮の王子・眷属の社は三ヶ国に充満せり。
佐那武(大野庄にこれあり)には拝殿と講堂あり。 王子の五所は白早取なり(五所宮なり)。 大宮は毘沙門なり。 内宮は不動なり。 小白山(小河にこれあり)あり。

三の宮(本地は千手なり)に、宝殿・彼岸所(五間三面)・講堂(五間四面。本仏は大日なり)・鐘楼あり。 小社は小禅師あり。 次に大行事あり。

八幡宮(本地は阿弥陀なり)に、宝殿(尺迦如来あり)・拝殿・結縁寺(一間四面)あり。 三間二面の礼堂あり。 鐘楼あり。 宝蔵。 春日社に宝殿・拝殿あり。

金剱宮に、宝殿・講堂(大日如来あり)・宝蔵・三重塔・鐘楼あり。 荒御前・糺宮・大行事・乙剣あり。

岩本宮に、宝殿・拝殿・講堂(五間二面。本地は大日なり)・鐘楼あり。 水宮あり。 小社巨多なり。 但奥宮に白鳥と云て尼神なり。 菅生は北山にあり。

火御子に、宝殿・拝殿あり。

凡そ本宮の分の神殿仏閣は、越後・能登・加賀の三ヶ国に充満せり。 委しくは注せざるか。 惣て北の六道は白山の敷地なり。 加賀の国は敷地の中の敷地なり。 [已上は本宮の王子・眷属なり]

[中略]

加賀の下山の七社は、白山・金剱・岩本・三の宮(これを本宮四社と号す)、中宮・佐羅・別宮(これを中宮と号するなり)、惣じて七社と云ふ。
越前の下山の七社(平泉寺と号す)は白山の三所権現をこれを崇め奉る。 禅頂の三所の御事なり。
美乃の下山は、長滝寺の七社なり(石同代と云ふ社まで女人は参詣すと云々。加賀は中宮まで参詣す)。

[中略]

白山七社本地垂迹事

本宮(御位は正一位なり)
本地は十一面観音なり。 垂迹は女神なり。 御髻と御装束は唐女の如し


金剱宮(白山の第一の王子なり)
本地は倶利伽羅明王なり。 垂迹は男神なり。 御冠に上衣を着す。 銀弓と金箭を帯し、金作の御太刀はかせ給ふ。

三宮(白山の第三の姫宮なり)
本地は千手観音なり。 垂迹は女神なり。 御装束等は本宮の如し


岩本宮(白山の第二の王子なり)
禅師権現なり。 本地は地蔵菩薩なり。 垂迹は僧形なり。

中宮
本地は如意輪なり。 垂迹は本宮の如し。 ただし童形か。 児宮と云々。 ただし根本は如意輪なり。 後に三所を祝ひ奉る。

佐羅宮
本地は不動明王なり。 垂迹は金剱宮の如し。 早松は普賢・文殊なり。 二童子の本地か。

別宮
本地は十一面・阿弥陀・正観音の三所権現なり。 十一面は垂迹なり。 御姿本宮の如し。 阿弥陀は奇眼老翁なり。 神彩甚た閑正なり。 観音は咲を含む。 宰の官人なり。 銀弓金箭を帯す。

「泰澄和尚伝」

白山行人泰澄和尚は本は越の大徳と名づく、神融禅師也。 俗姓は三神氏、越前国麻生津三神安角の二男也。 母は伊野氏、夢に白玉の水精を取り懐の中に入ると見て乃ち妊りぬ。 月満ち産生する時、六月雪降り下る厚さ一寸、只産の屋上庭園に、素雪磑々として碧氷凛々たり。 これ乃ち天渟中原瀛真人天武天皇飛鳥浄御原宮の御宇白鳳二十二年壬午歳六月十一日誕生し給へり。
[中略]
和尚越知峯に於いて白山の高嶺雪嶺を見て、常に念じらく彼の雪嶺に攀じ登りて、末世衆生の利益が為に、行きて霊神を顕し奉るべし。 和尚霊亀二年に至り夢に天衣瓔珞を以て身を餝れる貴女を見る。 虚空紫雲の中より透くみ出でて告て曰く、我が霊感時至れり早く来るべし。
而して日本根子高瑞浄足姫元正天皇(三十四代)御在位養老元年丁巳歳、和尚年三十六歳也。 彼の年四月一日和尚白山麓大野隈笞川東伊野原に宿し乃ち観念を凝らし咒功を運び、天に呼び地を扣き、骨を摧き肝を屠る。 爰に先日夢見給ひし貴女屡現じて和尚に命じて言わく、此の地は大徳の悲母が産穢して結界に非ず、此の東の林泉は吾が遊止地也、早く来るべし。 言は未だ畢さるに即ち隠れぬ。 和尚此の告げに驚いて、乃ち彼の林泉に臨みて日夜大音声を放ち礼拝念誦す、吾が心の月輪阿字空門の八葉白蓮の素光の中に速かに霊質を垂れ給へと。 爰に祈念に応へて前の貴女現じて告げて曰く、我れ天嶺に有りと雖も、恒に此の林中に遊ぶ、此処を以て中居とす。 [中略] 吾が身は乃ち伊弉諾[冊]尊是れ也、今妙理大菩薩と号す。 此の神岳白嶺乃ち吾が神務国政時の都也。 [中略] 抑吾が本地真身は天嶺に在り、往きて礼すべし。 此の言葉未だ訖らざるに神女忽に隠れ給ひぬ。 和尚今霊感奇異を顕して、弥々仏徳掲焉ことを仰ぐ。
乃ち白山天嶺禅定に攀登し、緑碧池の側に居り、礼念加持一心不乱にして猛烈強盛なり、三密の印観を凝らし、五相心身を調う、咒満口に遍し念力骨を徹す。 爾時池の中より九頭龍王形を示す。 和尚重て責めて曰く、此れは是れ方便の示現なり、本地の真身に非ず。 乃ち又十一面自在尊の慈悲の玉躰忽ちに現ず。 妙相眼を遮り光明身を耀かす。 爰に和尚悲喜胸に満ち感涙面を洗う、稽首帰命して仏足を頂礼す。 乃ち曰て言わく、像末の衆生必ず利益へ抜済すと。 爾時観世音金冠を揺かし慈眼を瞬き、乃ち領納す。 未だ再拝に及ばざるに妙躰早く隠れぬ。 貴なる哉、歓喜の涙幾か。
乃ち亦た和尚左の岳澗に徑って孤峰に向かいて、一の宰官人に値う、手に金の箭を握り、肩に銀弓を係けたり。 咲を含み語りて言く、我れは是れ妙理大菩薩の神務輔佐の行事貫主なり、名は小白山別山大行事と曰う。 大徳当に聖観音現身と知る、言中乃ち隠る。
和尚右の孤峰に攀る、一の奇眼老翁に値う、神彩甚だ閑なり。 乃ち語りて曰く、我れは是れ妙理大菩薩の神勢静謐敬沃輔弼なり、名を太己貴と曰う。 蓋し西刹主也。 乃ち言と共に失ひぬ。

「源平盛衰記」巻第二十九

三箇馬場願書事

そもそも白山妙理権現と申すは、昔越前国麻生津に、三神の安角が二男、越大徳神融禅師と云ふ人ましましき。 久修練行年積もり、難行精進日に新たに也き。 元生天皇御宇、養老元年に、和尚当国大野郡伊野原に遊止し給ひたりけるに、一人の貴女化現して云く、日本秋津島は本是神国也、我天神最初の国常立尊より跡を降してこのかた、百七十九万二千四百七十六歳、上上皇を護り下下民を撫で、吾が本地の真身は山頂に在、往て礼すべしと云て、化女即ち隠れ給ぬ。 和尚霊感を仰ぎて白山の絶頂に攀じ登り、緑の池の辺に居て、三密印観を凝らし、五相身心を調へて、祈念加持し給ひければ、池中より九頭龍の大蛇身を現ぜり。 和尚責めて云く、此は是れ方便示現の形、全く本地の真身にあらじとて、咒遍功を増ければ、十一面観音自在尊、慈悲の玉体顕れ給へり。 妙相遮眼光明身を耀せり。 和尚悲喜胸に満ちて感涙面を洗ふ。 帰命頂礼し奉て云く、願くは大聖本地垂跡、哀を垂れて像末の衆生を抜済利益し給へと申されければ、爾時に観世音、金冠を動かし慈眼を瞬はし給ひて、妙体速に隠れ給ふ。 又和尚左の峯に登り給へば、一宰官人にあへり。 手に金の箭を把り肩に銀の弓を懸けたり。 咲を含て語て云く、我は是れ妙理大菩薩の神務輔佐の貫首、名をば小白山、別山大行事と云ふ。 大徳当に知るべし、聖観世音の化身也と云ひて隠れぬ。 又和尚右の嶺に登り給へば、一の老翁有り。 語つて云、我は是れ妙理大菩薩の神務、静謐啓泆輔弼也、名をば太已貴と云ふ。 蓋し又西刹の教主、阿弥陀也と云つて隠れ給ひぬ。 是れを白山三所権現と申す也。

「加賀白山伝記之事」

加賀白山縁記

夫白山妙理大菩薩と申奉るは、本地は娑婆施無畏の主し遍在智満の菩薩にて、垂跡は伊弉冊の尊となり別山大行事と申奉るは、本地は南方補陀落世界の尊容入重玄門の大士にて、垂跡は菊理媛の尊と権現輔佐の神なり高祖太汝と申奉るは、本地は安養能化の如来超世願王の善逝なり。垂跡は大己貴の命と権現輔弼の神なり。 六所の王子と奉るは、或は申仏法護持の天主降伏魔障明王、或は一代教主の世尊六道能化将権智福円満の大聖興願如意の菩薩なり。 一万の眷属と奉るは本地は三世覚母の文殊菩薩なり。 十万の金剛童子と奉るは本地は十種願王普賢菩薩なり。 五万八千之采女と奉るは堅牢地神の垂跡なり。 上三ツの峯に三社を鎮し、下もに四社を安す。 第四剣の宮と申奉るは、本地不動明王、垂跡は地神第三の神瓊瓊杵の尊となり。 第五中宮御前と申奉るは、本地は薬師如来、垂跡は地神第四彦火火出見尊なり。 第六勝佐良の宮と申奉るは、本地は聖観音、垂跡は地神第五鸕鷀草葺不合の尊となり。 第七岩根の宮と申奉るは、本地は十一面観音、白山第三之王子高野彦の尊なり。
[中略]
越の大徳泰澄大師と申人。 人皇四十代天武帝白鳳十一壬午年、越前の国麻生津村三神氏安角が家に生れ、幼きより仏果を願い師なくして自山髪を剃りて、後に越知山を開て住居し仏法を興行したまふ。 又人皇四十四代元正帝霊亀二丙辰年、加賀の国舟岡山に移り妙法の岩窟に住居して、白山権現に霊験を祈り給ふところに一夜夢中に権現貴女の姿を現して、白馬に騎りて今の下白山拝殿の前の平岩の上に止まりて、大師につげてのたまわく。 我れは白山の真霊なり。昔し葦原国始て成りしより以来此の舟岡山に住みなれ、西河の深淵に遊ひ、時節因縁を待て、汝が出世の結界荘厳の道場を建立せんと事を相待こと既に久しとのたまひて、ついに隠れたまふと見て忽ち夢さめたり。
[中略]
又養老元丁巳年四月に右の貴女直に身を現してつけたまわく、 我れはこれ昔しは伊弉冊の尊となり。天照大神の王母なり。今は白山妙理権現を名けたり。
[中略]
同年六月白山の絶頂に登り、転法輪の岩室に入り緑の池に向ひて観念したまへは、池の中より九頭の龍王出現せり。 大師これを御覧して、それは方便の示現なり。 本地の真身にあらすと深く祈念したまへは、十一面観世音大慈大悲の玉体速にあらわれたまふ。 妙相眼を遮り光明身を耀すなり。 大師稽首帰命してのたまわく、舟岡山にては垂跡貴女の霊体を拝し、今白山絶頂緑りの池にては本地救世の玉体を拝する事宿縁限になし。 仰ぎ願わくは末世の衆生を救度利益したまへと。 その時観世音金冠しを揺し慈眼を瞬して納受したまいて、玉体忽に隠れたまふ。 そののち大師又左の孤峯に登りたまへば一人の宰官人に逢ひたまふ。 手に金の箭を握り肩に銀の弓を横へて、かたりてのたまわく、古へは我れは是れ伊弉冊の尊の神務輔佐の行事貫主なり。 今は白山の大行事といふと宣ひて忽に隠れたまふ。 大師又右の嶽に登りたまへば独りの老翁に逢ひたまふ。 奇眼の神彩甚たあさやかなるをきて大師に告てのたまわく、昔は我は是伊弉冊の尊神務輔弼なり。 太己貴といふ。 元は西方の主しなりとかたりて忽に隠れたまふ。

「諸神本懐集」

白山は妙理権現、これ十一面観音の化現

「越前国名蹟考」巻之九

白山[LINK]

○大御前  本地十一面観音二体有り 金仏なり 小きは年代不知と云 又奥州の秀衡造立と云 古仏なり 大きかたは近代青木紀伊守重治造立也 本社は帝都のかたへ向ひ王城の鬼門を守護なりと云ふ  ○本山十一面観音小松重盛の造立なり 此仏像に長谷川侍従か突し鎗疵有り 再興青木紀伊守造立の新仏なり
[中略]
○大己貴  大汝共越南知共称す 大御前より拾町許  ○本地阿弥陀の金仏なり 六道地蔵と同作といふ 是はあたらしく見ゆるなり
[中略]
○別山  本地聖観音の像 金森法印素玄造立 天正十三年に大野の篠蔵野にて鋳たる像なり
[中略]
第一本宮大御前者伊弉冊尊、本地十一面観音。 詠歌。玉垣は雲より空に顕れれ幾世経ぬらむ越のしら山。 第二は大己貴、伊弉諾尊、本尊阿弥陀如来。 詠歌。後の世もこの世もかねて唯たのめ越の三神のあらん限りを。 第三は別山大行事、素盞烏尊、又一説に天照大神の御子天忍穂耳尊、本地聖観音。 詠歌。くもはたゝ谷に埋みて久かたのつきにちかきは越のしら山。 是禅定の三社なり。 第四に金剱宮(私曰金剱今は鶴来と書く加州金沢より四里東に在り)、地神第三天瓊々杵尊、本地不動明王なり。 第五は中宮御前(私曰加州尾添村の地に在り)、地神第四彦火々出見尊、本地薬師如来なり。 第六は佐羅宮(私曰鶴来より中宮へ遷る道にあり)、地神第五鸕鷀草葺不合尊、本地毘沙門天なり。 第七は岩本宮(私曰加州別宮谷に在り)、高皇産霊尊、本地如意輪観自在。 合て七社権現也と云々

「加越能寺社由来」

神社由来書上[LINK]

 白山比咩神社由来 (石川郡鶴来町三宮町)
一、白山権現者、垂跡伊弉冊尊、本地十一面観音にて、加州一ノ宮ニ而、元正天皇之御宇養老元年泰澄法師之開基ニ而、高徳院様 御治国被遊、慶長元年御再建被 仰付候。 御社地当時三ノ宮村領之内ニ御鎮座之事。

「仏像図彙」

白山妙理大権現

元亨に曰伊弉諾尊也
養老元年泰澄法師登白山持誦専注也
忽に九頭の龍出づ是方便見躰也と
時に十一面観自在菩薩現じ玉ふ
[図]

「石川県石川郡誌」

白山比咩神社[LINK]

○白山比咩神社。 三宮に鎮座し、国幣中社にして、菊理比咩神、伊弉諾尊、伊弉冉尊を祀る。
[中略]
蓋し一宮は崇神天皇の時置き給ひし天社国社なれば、本社の創立せられ及び神戸を置かれしは、崇神天皇の七年十一月に在るものにして、当社神職の古伝も亦同じ。
[中略]
元正天皇霊亀二年六月十七日社地を手取川の上に遷す。 こは今の安久濤の森、古宮と称する地にして、その広さ二反九畝十一歩、今尚欅、榎等の老樹鬱茂し、こゝに白山比咩神社鎮座の石標を建つ。 古宮以前の社地は今詳ならず。 或は八幡領内の船岡山なりしならんと云ふ。 船岡山は後城地となりし為め社地としての遺跡今見るに由なし。 養老二年社殿を造営し、仁明天皇の嘉祥元年勅して四十五宇の神殿仏閣を造立せしめ給ふ。
[中略]
後土御門天皇文明十二年十月十六日戌刻、本宮正殿、塔、講堂、大拝殿、常行堂等地を払って焼失せるを以て、神体を摂社三ノ宮に遷座し奉りしが、その地遂に本宮となるに至れり。 是よりして三ノ宮は相殿となる。 三ノ宮の祭神は詳ならずといへども、古来白山第三の姫神なりといへり。
[中略]
当社奥宮は能美郡白山の嶺上字大御前に鎮座し、白山比咩神を祭る。 霊亀二年六月越前足羽郡の人泰澄登山し、養老三年七月十一面観音を大御前(古名禅頂)に祀りて、白山妙理大権現と号し、正観音を別山に祀りて小白山大行事大山祇神といひ、阿弥陀如来を奥院に祀りて大己貴神の本地とす。 [中略] 嶺上本尊は元木像なりしを、藤原秀衡金銅像に改む。 [中略] 天正七年八月二十八日再び噴火し、秀衡寄進の金銅仏を焼毀す。 [中略] 同年[明治五年]三月二十三日教部省令して白山嶺上の神社を白山比咩神社の本社とし、四年天正の噴火後、越前の人某の寄進にかゝる仏像を除却し、神鏡を以て霊代とす。 同十年十月五日内務省令して、白山比咩神社本社の名を廃し、更に奥宮と称せしめ、同二十三年十月社地の地域を確定せり。
奥宮境内摂社大己貴神社は、能美郡白山大字大己貴嶽に在りて大己貴神を祀る。 白山記に北峙高峯其頂住大明神号高祖太男知とあり。 創立年代は大御前の奥宮に同じく、之を奥の院と呼べり。 安置の仏像は天養元年藤原秀衡の造立なりしが、之を改造せること亦奥宮と同じく、明治十四年五月二十日以来白山比咩神社の摂社たり。 又奥宮境内摂社別山神社は能美郡白山嶺字別山に鎮座し大山祇神也とあるものにして、別山は一に小白山ともいへり。 安置の仏像造立等、却つて奥宮に同じ、大己貴神社と同時に白山比咩神社の摂社に列す。 [中略] 奥宮境外末社檜新宮は、能美郡白山嶺字檜ヶ宿に在り。 大山祇神、大己貴神を祀る。 白山記は次又有一霊験宝殿号檜新宮云々、建人乃美郡軽海郷松谷住如是房ト云人崇奉之、後及二百歳とあり。 白山記は長寛元年の書なり。 尾添村より山道三里の所に在りしも、今亦社殿を存せず。
以上奥宮摂末社の外、白山比咩神社の境内末社に荒御前神社外一社あり、 荒御前神社は勧請の年月詳ならずと雖も、白山記に傍官倉地毘沙門荒御前と記し、文保二年六月二十日夜遷宮とあれば、置社の二條天皇にあること疑ひなきものゝ如し。 祭神日本武尊なり。 相殿日吉神社は、祭神を彦火瓊々杵尊とし、或は高皇産霊神なりとす。 社号は一に禅師宮、又は高日神社といへり。 白山記に禅師宮宝殿拝殿ありと記し、遷宮のことも数々記録に見えて、二條天皇以前の置社たるを知るべし。 明治十年社殿朽毀せしかば、仮に之を相殿とせるものなり。 他の一社は社号及び社殿なし。 大国主命を祀る。 勧請年月不詳なり、 古来神饌所に祀りしが、明治五年祠を拝殿内に遷せり。
白山比咩神社の境外摂社には本郡鶴来町県社金剱神社、吉野谷村字中宮村社笥笠中宮神社、吉野谷村字佐良の村社佐良早松神社、能美郡山上村岩本の村社岩本神社、同郡鳥越村字別宮の郷社白山別宮神社あり。 境外末社には、本郡蔵山村字日御子の郷社日御子神社、河内村字八幡の村社八幡社、字白山の住吉神社(現今社殿なし)、舘畑村字井口村社弓原神社、能美郡字尾添の村社加宝神社、同郡山上村字和佐谷の村社和佐谷社、同郡鳥越村字広瀬の村社志津原神社等あり。

「日本の神々 神社と聖地 8 北陸」

白山比咩神社(東四柳史明)

 今日、白山縁起のなかで最古の内容をもつものとして知られるのは、白山比咩神社所蔵の『白山之記』(国指定重要文化財)である。
[中略]
 同記によれば、白山は加賀国の石川郡味智郷に位置し、御前峰山(2702メートル)の山頂を特に「禅定」と称した。 そこには有徳の大明神である正一位白山妙理大菩薩が住まうとされ、一間一面の宝殿に、その本地仏十一面観自在菩薩(観音)の五尺の金銅像が安置されていた。 この宝殿の東には如意輪(観音)の垂迹神である児宮があり、西には別山(後述)の本宮があった。 また御前峰の北方にそそり立つ高峯の大汝峰(2684メートル)の頂には、阿弥陀の垂迹神である高祖太男知が一間一面の宝殿に五尺の金銅像として安置され、御前峰から南へ数十里隔てた別山(2399メートル)の頂にも、聖観音の垂迹神である白山の地主神(大山祇神)が、これまた五尺の金銅像として一間一面の宝殿に安置されていた。 これらの宝殿の前には、それぞれ直径一尺八寸の鰐口がかけられていたが、別に御前峰には長さ一丈の錫杖が、大汝峰と別山には香炉が置かれていた。 これらは、御前峰の場合は末代聖人の請いによって鳥羽上皇が、また大汝峰の場合は越前国足羽に住む証意が寄進したもので、別山の場合、鰐口は鳥羽上皇、香炉は証意の寄進によるものであったという。 一方、御前峰のすぐ背後に聳える山を「剣の御山」(剣ヶ峯)といい、その麓に白山権現(妙理大菩薩)が出生したと伝える「翠が池」があり、その水を飲めば延命長寿を得ると説かれている。
 つづいて、同記は、白山の本来の地主神が御前峰を白山権現に譲って別山の神となったこと、また池の西方の千歳谷は万年雪で覆われた深い渓谷で、その南の竜尾の麓に泰澄大師(白山にはじめて登拝したと伝えられる越前の山岳修行僧)の行道跡があり、四百余年を経たのちもなお草木の生えない聖蹟となっていることなどを述べ、こうした白山の為躰はまさに大聖文殊の栖宅であった震旦(中国)の五台山と同様であって、五台山の峰を一度踏めば文殊の利益にあずかりえたように、一度白山に登れば観音の冥助をこうむることができると説いている。 次いで同記の内容は、白山の禅定道(登山道)のことへと移行する。
[中略]
 つづいて同記は禅定道を加賀馬場へと下る道筋を描写し、地蔵菩薩を本地仏とする檜新宮や虚空蔵菩薩の垂跡神を祀る加宝宮などに触れ、尾添川を葛籠渡で越えると笥笠の中宮に至ると記す。 中宮には本地仏の如意輪を祀る三間一面の神殿のほか拝殿・彼岸所・講堂・新宝殿・常行堂・法華三昧堂・不動堂・夏堂・鐘楼などの堂舍が建ち並び、長史の僧隆厳(『白山之記』の編者)のほか、冬見の子孫で十一代の執行を相伝する守目兼延と、春見の子孫と称する神人が奉仕している旨を述べている。 次いで荒御前中宮の下にあたる「一橋」や、「酒殿」と号する大瓶の跡、「濁澄橋」、「佐羅大明神の宮」、「禅頂の別宮」へと記述は及ぶが、佐羅宮については、本地は不動明王、宝殿は天元五年(932)の創建で、早松・並松の小社もあり、大日如来を本地とする六所御子の講堂は長保元年(999)の造営であるとし、別宮については、三間一面の宝殿のほか拝殿・渡殿と小社二宇のほか講堂があると述べ、佐羅宮から別宮に至る道筋には湯屋二宇からなる「六所堂」という社や「境の明神」があると記している。
 さらに同記は「白山本宮」について説明し、本宮周辺の禅師宮(本地地蔵菩薩)・三宮(本地千手観音)・八幡宮(本地阿弥陀仏)・金剱宮・岩本宮・火御子社や、本宮の末社とその所在地について述べたあと、本宮の配下につらなる「神殿・仏閣は越後・能登・加賀の三ヵ国に充満せり」とし、北陸道六ヵ国は白山の敷地であり、なかでも加賀国は敷地のなかの敷地であると主張している。
[中略]
 白山本宮の社殿や堂宇については『白山之記』に、宝殿(本殿)・拝殿・彼岸所のほか、管理施設である政所・大倉・本所倉・傍官倉や、摂社である荒御前(本地毘沙門)・糟神 滝宮(本地不動)・禅師宮(本地地蔵)の各本殿・拝殿・祓殿(禅師宮のみ祓殿なし)、別当白山寺の主要堂宇で御内八堂と呼ばれる講堂・剱講堂・西堂・東堂・十一面堂(法華常行堂)・新十一面堂(五堂)・馬頭堂・新三昧堂、また付属施設ともいうべき鐘楼・武徳殿・五重塔・四足門・廻廊が列記されている。
[中略]
 本宮の古い境外末社としては、不動天(和佐谷神社、能美郡辰口町和佐谷)・弓の原(弓原神社、石川郡鶴来町井口町)・志津原明神(志津原神社、石川郡鳥越村広瀬)・高峅(白山神社、珠洲市三崎町雲津)・佐那武社(佐那武白山神社、金沢市寺中町の大野湊神社境内)・能生白山社(能生白山神社、新潟県頸城郡能生町)などが知られているが、それらは加賀から能登・越後を中心に北東日本海沿岸地域に拡がる白山本宮信仰圏の地域的拠点でもあった。
名称比定社本地仏鎮座地
三所権現正一位白山妙理大菩薩白山奥宮十一面観音御前峰
高祖太男知大汝神社阿弥陀如来大汝峰
別山大行事別山神社聖観音別山
檜新宮檜新宮地蔵菩薩白山市尾添
加宝宮加宝神社虚空蔵菩薩白山市尾添
中宮三社中宮笥笠中宮神社如意輪観音白山市中宮
佐羅宮佐良早松神社不動明王白山市佐良
別宮白山別宮神社十一面観音
阿弥陀如来
聖観音
白山市別宮
本宮四社白山本宮白山比咩神社十一面観音白山市三宮
三宮白山比咩神社に配祀千手観音
金剱宮金剱宮倶利伽羅明王白山市鶴来日詰町
岩本宮岩本神社地蔵菩薩能美市辰口町
本宮の末社荒御前荒御前神社毘沙門天白山市三宮(本社境内)
禅師宮荒御前神社に配祀地蔵菩薩
九所小神不動天和佐谷神社 能美市和佐谷町
岩神岩上神社 小松市岩上町
三戸明神水戸明神 白山市白山町(古宮公園内)
岩坂不詳  
弓原弓原神社 白山市井口町
志津原明神志津原神社 白山市広瀬町
高峅白山神社 珠洲市三崎町雲津
佐那武佐那武白山神社 金沢市寺中町
能生白山能生白山神社 新潟県糸魚川市能生
その他八幡宮八幡神社阿弥陀如来白山市八幡町
火御子日御子神社 白山市日御子町

「中世諸国一宮制の基礎的研究」

加賀国

Ⅰ 一宮

1 白山比咩神社。 白山本宮・白山宮(社)・白山大(太)神宮・白山権現とも称される。
5 当社の本地は十一面観音で、霊亀元年8715)の示現とされるが、『泰澄和尚伝』やそれと同系統である『元亨釈書』巻18所収の「白山明神」では、伊弉諾尊が山(禅)頂の妙理大菩薩だとする。 室町期頃の「白山三所権現画像」には、中央上段に唐装で宝冠をいただき唐扇をかざした女神像(白山妙理権現)が描かれており、戦国期の成立した『大永神書』(社蔵)によると、白山権現の神は伊弉冊尊とみえ、本宮の祭神は装束を着し唐女のごとき姿で葦毛の馬に乗って出現したと述べている。 当社の祭神名は、中世の史料には確認できないが、鎌倉末期から室町期の間に、白山神が男神から女神に転身していたらしい。 江戸期になって神主方が菊理媛単独説を唱えることになり、これに対し長吏方が、禅頂を伊弉諾尊、下白山(本宮)を伊弉冉尊とする陰陽合体説を強調したため、ついに双方の主張が混在し、菊理媛を主神に据え伊弉諾・伊弉冉両尊を配祀する、現在の祭神構成が採られることになった。
6 白山加賀馬場の寺社勢力は、久安3年(1147)4月、比叡山延暦寺の末寺となり、その地主神であった近江坂本の「日吉七社」の例にならい、白山7社を構成するようになった。 [中略] 延暦寺には、白山馬場を統括する白山別当の職が設けられ、加賀馬場においても、本宮の別当白山寺の長吏が、白山7社の惣長吏を兼帯した。