2019.10.26
円周率や黄金比はなぜ割り切れないのか?

 ”割り切れない” = ”余りが出る”、 この意味合いを ”論理的” にではなく、”数学的” にひっくり返してみると、
1/”割り切れない” = ”割り切れる” = ”余りが出ない” という事になる。
Fig.1の様に円周の長さの紐を円柱に巻き付けてみよう。もし円周長と直径の比率=円周率が割り切れる、余りが出なかったら紐の両端は隙間が空くか、重なって余りが出てしまうであろう。
円周率とはどんな直径の円でも隙間が空かず、余りも出ない=ぴたりと円が閉じられる条件と言ったら良いであろうか。

Fig.1

 では、次に成長ということを考えてみよう。
草木や鹿の角のように日々、細胞が増殖して成長する仕組みを考えてみる。
日々同じ割合で成長するとどんな事が起こるか?
草木や角は先端が徐々に重くなり、いつか根元は支え切れずに折れてしまうであろう。
あるいは枝と枝が重なり合ってしまうと日光が遮られた枝葉は光合成が足りず成長が偏ってしまうであろう。
そうならない為には、Fig.2のように正方形が拡大する割合がキーポイントであることが判る。
正方形に内接する円弧の半径も同様に少しずつ拡大されていく。
黄金比とはどこまで行っても重ならないで成長を続ける=開かれた条件と言ったら良いであろうか。

Fig.2

 ”余りが出ない” モノをひっくり返した時に ”割り切れない” 事が起きるなら、”モノ事は双対である” と言ってみよう。
”ダ・ビンチはいつも笑っていない” と言うならば、
”ダ・ビンチは1/いつも笑っていない” = ”ダ・ビンチは笑っている時がある”
この対はどちらも真実に近い様な気がする。
これを ”文学的” に表現するならば、”ダ・ビンチの笑っている顔を見た事が無い” という文章の裏には、”そんなダ・ビンチでも表情が緩む時がある” という対が潜んでいるような気がする。
もし ”論理的” に何かを定義するならば、同時にひっくり返したものと対にしないとダ・ビンチは救われない=存在が否定されてしまわないないだろうか?
これは双対概念と言えば良いだろうか?
ただ人間の脳は、”片側の論理” で安心しがちで、”ひっくり返した論理” には目を瞑る仕組みがありそうだ。
モノ事はFig.3のように真円ではなく楕円のように焦点が二つあるのかもしれない。
人間は焦点が二つあることを認めたくない、一つにしておきたい、同時に認識することが苦手な生き物なのかもしれない。
真円の円周長は割り切れないが、楕円の円周長は四則演算では計算出来ず近似値=やはり割り切れない。
一方、”割り切れない” 事によって どんな人間も動植物も救われている=生きる条件は満たされている様な気がする次第である。

 夏目漱石が草枕で記したように、”智に働けば角が立つ 情に棹させば流される” ならば、
1/智 = 情?
1/理性 = 感性?

Fig.3

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