2023.1.1
年頭所感:Eaglesによせて Two side to Country Rock

 "Two side to every story" これはジーン・クラークが1977年にリリースしたソロ・アルバムのタイトルだが、"物事には二つの見方がある" という諺である。
ということで、Eaglesを通してカントリー・ロックのもうひとつの側面について記してみたい。

 Eaglesは1972年に"Take It Easy" でデビューした訳だが、当時、ラジオでは具体的な情報は全く無かった。
音楽雑誌では新人紹介されていたと思われるが、どんな演奏をするのか全く知らなかった。
筆者にとって1972年はカントリー・ロックと言われていたByrdsが解散し、替わってCSN&Yにたまげたり、ブルーグラスに興味が移っていた年であった。
その為、1979年までの7年間はカントリー・ロックから離れてしまった時期であった。
1978年に学校のクラスメートと神奈川の中津渓谷にドライブに出かけた折りにカーステレオ(カセットテープ)から知らないカントリー・ロックが流れてきたので、"これ誰れ?"と聞くとEagles との事。
Eaglesは米国のロック・バンドという認識しかなかったので、こんな曲もやるんだとは思ったが、レコード屋に探しに出かけるまでには至らなかった。

 1979年にByrdsの創設メンバーがマッギン・クラーク&ヒルマンとして再デビューしたのをきっかけに銀座は山野楽器のかつての漁場を探しに行くと、1972年以降のカントリー・ロックがどうなっていたのか、手に取るように判った。
その空白の時代にジーン・クラークもクリス・ヒルマンもカントリー・ロックを続けていた事を知ったのだが、もはや時代は終わりを迎えていたと感じた次第である。
その後、カーステレオで聞いたEaglesを思い出して地元にオープンしたばかりの輸入盤屋で手に入れたのがデビュー・アルバム"Eagles"と2作目の"Desperado"であった。
カーステレオで聞いた曲は入っていなかったが、大当たりであった。
5弦バンジョーにマンドリンは出てくるし、Byrdsで聴いたストリングベンダーも聞こえる。
そして素晴らしいと感じたのが、
・3声、または4声のハーモニーボーカル。
・時折出てくる感傷的なコード進行。
・瑞瑞しい音作り。
であった。
乾いて泥臭い音作りのByrdsに馴染んでいた筆者にとっては微かな潤いも感じた次第である。
カントリー・ロックも1972年当時は結構進化していたんだと思ったが、2枚のアルバムにはグランド・ファンク・レイルロードを思わせるハード・ロック・ナンバーも含まれていた。
筆者にはカントリー・ロック・ナンバーが嬉しいが、Eaglesは両方やりたいように思えた。
プロデューサーを見ると、初めて名前を聞くGlyn Johnsでイギリス録音との事。なるほど西海岸のロス・アンジェルスじゃないのか、と思った。
その後、これは彼らが契約しているAsylumレコードの創始者、David Geffenの計らいだった事を知ったのだが、レコード・レーベル、そしてプロデューサー側から見たカントリー・ロック、これが今回のESSAYのテーマである。

もくじ

その1:David Geffenの憶い?
その2:Glyn Johnsの憶い?
その3:メンバーの憶い?
その4:Bill Szymczykの憶い?
その5:エデンからの道は何処へ向かう?

アルバム リリース・リスト

No.
タイトル
プロデューサー
エンジニア
レーベル
リリース
1
Eagles
Glyn Johns Glyn Johns Asylum Jun.1972
2
Desperado
Glyn Johns Glyn Johns Asylum Apr.1973
3
On the Border
Glyn Johns
Bill Szymczyk
Glyn Johns
Bill Szymczyk
Asylum Mar.1974
4
One of These Nights
Bill Szymczyk Bill Szymczyk Asylum Jun.1975
5
Hotel California
Bill Szymczyk Bill Szymczyk Asylum Dec.1976
6
The Long Run
Bill Szymczyk Bill Szymczyk Asylum Sep.1979
7
Eagles Live
Bill Szymczyk Ted Jensen Asylum Nov.1980
8
Hell Freezes Over
Eagles
Elliot Scheiner
Rob Jacobs
Stan Lynch
Elliot Scheiner
Rob Jacobs
Geffen Eagles Recording Co. Nov.1994
9
Long Road Out of Eden
Eagles
Steuart Smith
Richard F.W.Davis
Scott Crago
Bill Szymczyk
Chris Bell
Mike Terry
Jim Nipar
Mike Harlow
Eagles Recording Co. II Lost Highway Polydor Oct.2007

その1:David Geffenの憶い?

 デイビッド・ゲフィンはウィキペディアによると1943年2月21日、ニューヨークでユダヤ系(イスラエル系移民)の家系に生まれ、エージェントの仕事に就くとBuffalo Springfield解散からCS&Nデビューを任されたとの事。
1970年にジャクソン・ブラウンをデビューさせる際にアトランティック・レーベルの創始者、Ahmet Ertegunから新しいレーベルの立ち上げを勧められてAsylumレーベルを立ち上げ、当時ブラウンと寄宿生活をしていたグレン・フライやJD・サウザーと言った人脈に触れる。
1972年リリースのリンダ・ロンシュタットの3作目のアルバム"Linda Ronstadt"のレコーディングに際して招集されたグレン・フライ、ドン・ヘンリー、バーニー・レドン、ランディ・マイズナーが一緒にバンドを組むことになり、 4人はEaglesとしてAsylumレーベルと契約する事になる。
Buffalo Springfieldを起点とするこの人脈を見ると、ゲフィンはAsylumをカントリー・ロック・レーベルとして売っていこうと考えていたように思われる。
Byrdsでカントリー志向の曲を提供し始めたクリス・ヒルマンがナイトクラブ、WHISKY A GO GOに働きかけてBuffalo Springfieldの出演契約を後押ししていたように、ヒルマンも彼らにカントリー・ロックへのアプローチを感じていたようである。
ゲフィンも恐らくは1966年のBuffalo Springfieldデビューの頃からロック・ミュージシャンがカントリー・ミュージックに接近する様子を見ていたものと思われる。
そしてリンダ・ロンシュタットがニール・ヤングやジャクソン・ブラウンと言った新進気鋭のシンガー・ソングライターの曲を取り上げ、バック・バンドにペダル・スティール・ギターを加えた事でカントリー・ロックが次第に形を成してきたのを感じ取ったようである。

 しかしながら、先発のByrdsの6作目"Sweetheart Of The Rodeo"やグラム・パーソンズとクリス・ヒルマンが立ち上げたFlying Burrito Brothers、Buffalo Springfieldから派生したPocoへのリスナーの反応が芳しくないのはゲフィンも気にしていたと思われる。
カントリー・ミュージックは1840年代に移住してきたアイルランド系を出自とし、南部のナッシュビルを拠点とした音楽産業が根付いていた事から、Asylumレーベルを立ち上げた1970年当時はポピュラー・ミュージック界も一線を引いていたようである。
西海岸のロス・アンジェルスで興り始めたカントリー・ロックというムーブメントをユダヤ系のゲフィンは第三者的な視点で見ていたのかもしれない。
新進気鋭のシンガー・ソングライターの曲も、60年代初期のポップ・ミュージックを支えていた職業ライターの曲とは違ってリスナー達が好ましいと感じ始めてはいるものの、エージェント業界は手探り状態だったようである。
Eaglesデビューに際し、ゲフィンは作戦を練るためにデモ・テープを聴きながらこんな事を思っただろうか?

そうか、4人全員がボーカルを取れるし、ハーモニーがいい。プレスリーのバックの白人ゴスペルグループみたいだ。
"Flying Burrito Brothers"に居たレドンはブルーグラス出身でバンジョー、マンドリンも弾けるマルチ・プイレヤーか。
ヘンリーが作詞でフライが作曲と言うコンビか。どちらもシンガー・ソングライターとして売り出せそうだな。
近年のByrdsはカバー曲が多く、最近はジャクソン・ブラウンのようなシンガー・ソングライターの曲を取り上げている。
"Flying Burrito Brothers"はパーソンズ/ヒルマンのコンビで自作曲があるがロック・サウンドとしては押しが弱い。これはプロデューサーのせいだな。
Pocoはデビュー当時のリッチー・フューレイの曲、Pickin' Up the Pieces以降はカントリー・ロックなのかどうかピントが甘い。むしろプロデュースしているジム・メッシーナの曲は誰が聴いてもカントリーと思わせるが。
ただ、Eaglesの全員がカントリー・ロックのビジョンを持っているかどうか?
グランド・ファンク・レイルロードのような曲もやるんだ。カントリー・ロックがダメでも二の矢があるって事か。
さて、彼らを引き受けてくれるプロデューサーは居るだろうか?

 ゲフィンはローリング・ストーンズ、レド・ツェッペリンのアルバムでエンジニアを務めたGlyn Johnsを指名した訳だが、その発想はどこから生まれたのであろうか?
思い当たるとすれば、1969年1月にリリースされたツェッペリンのデビューアルバム*1に収録されている"Babe I'm Gonna Leave You"、"Black Mountain Side"であろうか?
前者はカリフォルニアのフォーク・シンガー、Anne Bredonによって1950年代末に書かれた曲でジョーン・バエズが1962年にカバーしたフォークソングである。
ジミー・ペイジのアコギのアルペジオの伴奏で始まるが、途中からハード・ロック仕立てになっている。
後者は同じくペイジのアコギとインドの打楽器タブラによるインスト・ナンバーであるが、デビュー当時のツェッペリンのイメージからすると意表を突くような選曲である。
ツェッペリンはアトランティック・レーベルであった縁でGlyn Johnsへアクセスしていったのかもしれない。

脱輪:
 タブラはその後、
1972年のPocoの5作目"A Good Feelin' To Know"の中のティモシー・シュミット作"I Can See Everything"、
1974年のDoobie Bros.の4作目"What Were Once Vices Are Now Habits"の中の"Tell Me What You Want"、
Eaglesでは1975年の"One of These Nights"の中のドン・フェルダー作"Too Many Hands"
で使われている。

脱輪その2:
 タブラがポピュラー音楽で認知されるようになったのは1971年にジョージ・ハリスンとインドのシタール奏者ラビ・シャンカールが主催したバングラディッシュ救済チャリティー・コンサートが切っ掛けと思われる。
シタールはビートルズやローリング・ストーンズ、スコット・マッケンジー、日本ではGSのテンプターズで聴かれるが、インドの伝統音楽ではシタール演奏はタブラとセットになっており、このコンサートで初めてタブラの音と演奏に接した人は多かったと思われる。

*1

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その2:Glyn Johnsの憶い?

 ゲフィンから指名を受けたグリン・ジョーンズはウィキペディアによるとゲフィンより1歳年上の1942年2月15日生まれの英国人エンジニア、プロデューサーである。
1969年頃、ビートルズはアビーロード・スタジオに籠ってアルバムを制作するやり方が煮詰まってしまい、以前の一発録音に戻りたいという願いで命名された通称"ゲット・バック・セッション"が行われるも、難航していた。
ジョーンズはそれを収拾すべくプロデュースを依頼されるが、進行中にメンバーがこれを拒否し、代わりにフィル・スペクターに引き継がれたとの事。
後にラスト・アルバム"Let It Be"としてリリースされる曰く付きのセッションである。
ビートルズのプロデューサーはデビュー以来ジョージ・マーチンであったが、1966年頃に4chレコーダーでオーバー・ダビングを繰り返して様々な楽器や効果音を盛り込むようになるとメンバーはミキシング過程に参加する事が認められるようになり、自分たちのアイデアをマーチンに提案するまでになっていた。
それは次第に良い方向でエスカレートし、"Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band"が生まれるが、1968年の通称ホワイト・アルバムの頃からメンバー全員がスタジオに揃う事は無くなり、自分の曲を仕上げる単独メンバーとマーチンの間で生ずるストレスが発散できなくなっていたとの事。
ジョーンズはこうした状況を見て来ており、ゲフィンからの依頼にはプロデューサーが覇権を取り戻せるならばと思っていたように思われる。
つまり、言う事を聞かないミュージシャンはお断り、という思いがあったのではないか?

 その少し前、ジョーンズは1968年の9月〜10月にツェッペリンのデビューアルバムで、先に触れた"Babe I'm Gonna Leave You"のようなフォークソングのカバーに際し、ハードロック仕立てにしているのだが、ペイジのアコギには浅く、プラントのボーカルには深くリバーブを掛けている。
こうしたリバーブ処理はほかの曲にも見られ、筆者は"You Shok Me"のようなブルーズ・ナンバーはアメリカ南部ではなく、どこか英国の古い街並みの中で反響しているような雰囲気を感じる。
その後、ジョーンズはツェッペリンから離れるが、1970年リリースの3作目"Led Zeppelin III"ではペイジはアコースティックギターを駆使してトラッド・フォークを感じさせる曲を揃え、"Gallos Pole"ではマンドリン、バンジョーが、"Tangerine"ではペダル・スティールが登場するまでに変化している。
これは明らかに米国のカントリー・ロックの影響と思われるが、本国ではいまひとつプロデュースの狙いが定まらないカントリー・ロックが英国でこのような捉え方をされているとしたら、と思うところがあってゲフィンはEaglesをジョーンズに託したのではないだろうか?

 さて、ウィキペディアにはデビューアルバム"Eagles"についてジョーンズの回顧禄が載っているが、グレン・フライと意見が分かれたとの事。
フライはジョーンズの考えるカントリー・ロックではなく、ロックン・ロール志向のサウンドにしたかった様子が伺える。
ジョーンズはEaglesのメンバーに向かって "君たちはロックン・ローラーじゃない”と発言したそうだが、言われた側の心情は想像に難くない。
ただ、バーニー・レドンは自分の特技を活かせるカントリー・ロック志向は歓迎したであろう。

 ファーストアルバム"Eagles" はGary Burdenと写真家のHenry Diltzの手になるジャケットからしてカントリー・ロック=ナッシュビルにあらずウェスタン志向のカラッと乾いたイメージを表現していたと思う。
冒頭の"Take It Easy"を聴きながら車をロス・アンジェルス郊外を東に転がしてゆくとジャケットのようなの砂漠地帯に変わってくる。
ここはJoshua Tree国立公園内にあり、奇妙な形のサボテンで有名な場所である。
筆者は4曲目のフライの作品、"Most of Us Are Sad"の"Whooo"というバックコーラスを聴いていると此処に吹いているであろう日没後の微かな風の音を想像してしまう。
"Train Leaves Here This Morning"はレドンが"Dillard & Clark"のデビューアルバム"The Fantastic Expedition of Dillard & Clark"でジーン・クラークと共作したもの。
バンジョーが聴かれる"Earlybird"はレドンとマイズナーの共作。
シンガー・ソングライターJack Tempchinの作品"Peaceful Easy Feeling"でレドンはストリング・ベンダーを弾いている。
"Witchy Woman"のようなハード・ロックもあるが、アコギを効果的に取り入れたのはジョーンズの狙いだろうか? 4声のハーモニー・ボーカルと相まってグランド・ファンク・レイルロードとは一線を画している。

脱輪:
 Joshua Treeと言えば1973年9月19日に26歳の若さで亡くなったグラム・パーソンズの名前が出てくる。
彼はストレスが溜まるとよく此処に来ていたそうだが、友人数人と泊まったモーテルでアルコールと薬物の過剰摂取により、発見された時には息絶えていたとの事。
彼の事を歌った曲は生前ではPocoのリッチー・フューレイ作の"Crazy Eyes"(亡くなる4日前にリリース)、没後ではEagles、レドン作の"My Man" があるが、没後20年ほどしてから再評価が高まり、トリビュート作品の中にもあるかもしれない。
ヘンリー作の"Hotel California"の冒頭に出てくる砂漠のホテルもここからなんらかのヒントを得ているかもしれない。

 続く2作目"Desperado" は前作と同じくGary Burden&Henry Diltzの手になるジャケットで、4人は西部劇のアウトローに扮している。
ライフルを構えたレドンは成りきっているが、帽子を目深に被って表情を見せないヘンリーはあまり乗り気で無いようにも見える。
このアルバムは実在のダルトン強盗団を扱ったコンセプト・アルバムである。
1979年に初めて聴いた時、それまで聴いてきたカントリー・ロックには無いリアルさと感傷性を感じて愛聴盤になってしまった。
これを聴く度に筆者はそのコンセプトとジャケットのイメージが的確なものであったと感じる。
そして、ウェスタンとは無縁の筈のブルーグラス系の楽器、と言うよりアコースティック楽器が妙にマッチしている事に目から鱗が落ちたような気がしたものである。
バンジョーやペダル・スティールを耳にした事がある世代なら、それらが聞こえればブルーグラスやカントリーを連想してしまうのは致し方ない事であり、むしろ楽器やカントリー・ミュージックの出自を知らない方が純粋に感性が反応するようである。
米国では寿司は日本食だから美味しいのではなく、アボガド・ロールなるネタが出てくるように美味しいから美味しいという事なのかもしれない。
リリースされた1973年頃のリスナーは微妙な世代だったのかもしれない。

 ウィキペディアによると、フライが2作目はコンセプト・アルバムを、と思っていたところに、ジャクソン・ブラウンが自身の21歳の誕生日にプレゼントされたと言う西部開拓時代のガン・ファイターの写真集をメンバーに見せたところ、アイデアが次第に具現化されて行ったとの事。
21歳というのは伝説のビリー・ザ・キッドが落命した歳でもあり、レドン作の"Twenty-One"もその産物と思われる。
冒頭とラストを締めくくるテーマ曲"Doolin-Dalton"はヘンリー、フライに加えてJD・サウザー、ジャクソン・ブラウンとの共作であり、カントリー・ロックには珍しいマイナー・コードが印象的である。
"Out of Control"、"Outlaw Man"なるハード・ロックのハチャメチャさ、ワイルドさと、"Tequila Sunrise"、"Saturday Night"と言ったソフトな楽曲が交互に映画の回想シーンのように現れる。
"Bitter Creek"はレドンの大胆なチョーキングとパーカッションのようにネックを叩くアコギが怪しさを盛り上げており、フェード・アウトしてゆく16ビートのリックは彼の独壇場である。
"Desperado"は後年、カーペンターズやリンダ・ロンシュタットにカバーされてから評価が高まったバラードだが、無法者を泣き落させる歌詞はハリウッド製西部劇のシナリオには無いかもしれない。スタンダード・ナンバーとなったのは頷ける。
ストリングスが被さってくるのはデビュー以来この曲が初めてで、こんな曲がEaglesにあったとは思いもよらなかった。
A面ラストからB面に続くこの展開は"Hotel California"の"Wested Time"でも顔を見せる。

Henry Diltzによるジャケット裏面の写真
後列右からグリン・ジョーンズ、マネージャのジョン・ハートマン
後列左端のライフルマンはジャケット・デザインを手がけたGary Burden
アウトロー左から:ブラウン、レドン、フライ、マイズナー、ヘンリー、サウザー

脱輪:
 ジョン・ハートマンはEagles他、下記のようなミュージシャンのマネージャ―を務める。
Sonny & Cher、Buffalo Springfield、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、Canned Heat、P.P.M.、CS&N、ジャクソン・ブラウン、America、Poco、Silver

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その3:メンバーの憶い?

 グレン・フライはミシガン州、デトロイトで1948年11月6日に生まれ、カントリー・ミュージックをロックに持ち込んだ2歳年上のグラム・パーソンズの熱心なファンだったと言われている。
グラム・パーソンズは南部はフロリダの裕福な農園の家に生まれ、ジョージアで育ち、自然にカントリー・ミュージックに親しんだようだが、シンガー・ソングライターとしてそれまでのナッシュビルスタイルとは違った曲を作っていた。
そうした姿勢はフライの背中を押したようだが、グラムが在籍したByrdsやFlying Burrito Brothers、そしてソロ活動を始めても商業的な成功が得られない事をフライはどう見ていたのだろうか?
また、モータウン・サウンドの発祥地であった工業都市デトロイト生まれのフライは南部の文化とは違った風土の中で育ったようである。
フライにとってカントリー・ミュージックとは小さい頃から慣れ親しんだルーツ・ミュージックではなかったのかもしれない。
カントリー・ミュージックで育ったが、それだけを求める限られたマーケットに媚びないグラムの姿勢にフライは惹かれたのかもしれない。
Eagles結成前にJD・サウザーと組んでいた"Longbranch Pennywhistle"はAmosなるインディー・レーベルから1969に1枚のアルバムをリリースするが、そこで聴かれるのはちょっと緩くてファンキーなもので、筆者はかすかにモータウン=ソウル・ミュージックの匂いを感じる。

 同じAmosレーベルからアルバムをリリースしていたShilohなるバンドに居たドン・ヘンリーの作詞のセンスは気になっていたようで、Eagles結成後は作曲の多彩なセンスを持つフライとの黄金のソング・ライターコンビが誕生する事になった。
ファースト・アルバムでは他のメンバーの楽曲の提供があり、Jack Tempchinの曲をカバーしているのでフライの楽曲は Take It Easy、Chug All Night、Most of Us Are Sad の3曲に限られていたが、2作目"Desperado" からはヘンリー&フライ・コンビが登場し、自身の作詞・作曲も併せてフライの比重が大きくなってゆく。
ロックン・ロール、ブギからバラード、フォーク、カントリー、テックス・メックスまで幅広くヒット曲を世に送り出したのは才能と呼ぶしかない。
Eagleshの強みは4人全員がリード・ボーカルを担当し、4声のハーモニー・ボーカル、バック・コーラスが出来るので、グレン・フライ&The Eagles というような意識は自他共に無かったと思われるが、レコード・リリースは契約であるから、次のリリースまでに楽曲を仕上げなければならないストレスはかなり大きかったのではないだろうか?
同時代の Poco や CS&N はメンバーが分担して楽曲を提供できたという点から見るとフライへの依存度は突出していたかもしれない。
彼の語録として、"Eagles への貢献”という表現が良く知られているが、大相撲で言えばひとり横綱の重責だろうか?

 一方、テキサス州ギルマーで1947年7月22日に生まれたドン・ヘンリーはShilohに在籍していたが、同じくAmosレーベルから1969にリリースされたアルバムではペダル・スティールが入り、後のEaglesで聴かれるカントリー・ロックだけでないハード・ロック志向の楽曲も聴かれ、Eaglesのプロトタイプと言えるかもしれない。
しかしながら、ローカルバンドどまりで全米スケールでは認知されなかった。
ヘンリーもカントリー・ロックでは食えないと感じ始めていたのであろうか?
One of These NightsがNo.1ヒットとなった頃の音楽雑誌のインタビューでそれ以前のアルバムを"忌々しいカントリー・ロック時代"と語っているが、ジョークなのか本心なのか微妙なところである。

 バーニー・レドンはミネソタ州、ミネアポリスで1947年7月19日に生まれる。
1962年頃、サン・ディエゴのブルーグラス・バンドThe Scottsville Squirrel Barkersでクリス・ヒルマンと活動を供にしていたが、その後Dillard & Clarkを経てFlying Burrito Brothersの2作目"Burrito Delux"から参加している。
ここでヒルマンと再会、グラム・パーソンズと出会うわけだが、そこではバンジョーは聴かれず、ブルーグラス色を表面に出そうと言う意図はなく、むしろ封印していたように見える。
1970年当時、ブルーグラスはロックやポップスとは無縁で、南部アパラチアン山脈周辺のアイリッシュ・トラッドを出自とするルーツ色の濃いジャンルであった事から、筆者はバンジョーやマンドリン、フィドルのような楽器は使い方を誤るとリスナーは拒否反応を示しかねないと感じていたからである。
1967年頃からNitty Gritty Dirt Bandがデビューアルバムで温故知新のような発想で南部のジャグ・ミュージックを取り上げ、バンジョーが聴かれるケースが出てきたが、1970年になると5作目"Uncle Charlie & His Dog Teddy" でロック・リズムに乗せてブルーグラスをやりだしたのをレドンはどう見ていたのであろうか?
あるいは、ツェッペリンがマンドリン、バンジョーやペダル・スティールまで持ち出したのを聴いて、ブルーグラス・スタイルのバンジョーはロック・ギターと対等に渡り合えるのではないか?と思ったかどうか?

 結果は1972年、"Take It Easy"、"Eary Bird"に現れたわけだが、グリン・ジョーンズの回顧が興味深い。詳細はこちらのESSAYも参照ください。
そして同年、Doobie Bros.の2作目"Toulouse Street"の中の"Listen To The Music"で申し合わせたかのようにバンジョーが聴かれるのは偶然とは思えない。
こちらはメンバーのパット・シモンズが弾いており、プロデューサーはアトランティック・レーベルのテッド・テンプルマン、リリースはEaglesより2か月遅れの7月である。
筆者は"Hotel California"が成功を収めた後の1979年になって初めて"Take It Easy"を聴いたので、1972年以降のカントリー・ロック進化系と認識した次第である。
しかしながら、その後のアルバムの大成功に比べてデビューアルバムや2作目"Desperado"への反応が今ひとつだった事を考えるとフライやヘンリーが抱いていた"カントリー・ロックでは食っていけない”という心配は的中したのかもしれない。
あるいは、バンジョーにアレルギーを起こしたリスナーも居たのだろうか?
"Listen To The Music"は"Take It Easy"のブルーグラス・バンジョーに比べると出自を抑えた控えめな使い方をしており、テッド・テンプルマンとグリン・ジョーンズの采配の違いと言えるかもしれない。

 ランディ・マイズナーはネブラスカ州スコッツブラフで1946年3月8日、ゲルマン系の家系に生まれる。
ウィキペディアによるとプレスリーに触発されたようだが、カントリー・ミュージックに親しむ地域や家系では無かった。
Eaglesの中ではマイズナーが作者としてクレジットされている曲に"Take It To The Limit"があるが、ヘンリー、フライとの共作になっており、1983年にウィーリー・ネルソンとウェイロン・ジェニングスがカバーしたようにカントリー・ミュージックとしてのヒット性を持っている。(恐らく、作曲=コード進行はフライと思われる。)
マイズナーがEaglesで作詞、作曲両方を手掛けたのは "Take the Devil"、"Tryin'"、"Is It True?"、"Try and Love Again"の4曲のみであるが、いずれもカントリー色は感じられない。
こうしてみると、Eaglesの魅力の中でカントリー・ロックでない側面、そしてヘンリ―やフライらが持ち合わせていないポップな面を担っていたように思われる。
また、筆者はEaglesに於いてハイ・キーのリード・ボーカル、ハーモニー・ボーカルのトップパートも貢献度が高かったと感じている。

 ジョー・ウォルシュはカンサス州ウィチタで1947年11月20日に生まれる。
ウィキペディアによると母がスコティッシュ、ゲルマンの家系のクラシックのピアニストとの事。
10歳の時にギターを手にし、ベンチャーズをコピーするギター少年だったようである。
1968年からJames Gangに参加、ABCレコードのシムチクとの付き合いが始まっている。
彼はどこか人を食ったようなコミカルな面があり、曲のタイトルやレコード・ジャケットにもそれが現れている。
ギター・テクニックは言うに及ばないが、彼の特徴はボーカルの声質に顕著である。
高音成分が強い金属的なトーンはマイズナーよりも更に際立っており、キーも高く、ファルセット=裏声にひっくり返る僅か手前で発声している。
ライブではバック・コーラスでハモッている映像も見られるが、他のメンバーの声から浮いてしまいがちなので、基本は参加しないようである。

 ティモシー・シュミットはカリフォルニア州オークランドで1947年10月30日に生まれ、サクラメントで育ち、苗字からして彼もゲルマン系の家系である。
ウィキペディアによると15歳の時に組んだのがフォーク・トリオだったそうで、その後サーフ・バンドとなり、カントリー・ミュージックに親しむ環境ではなかったようである。
Pocoデビューを待たずに脱退してしまったマイズナーの後継だった訳だが、ソングライティングとハーモニー・ボーカルで"シュミット印"を築き上げて行った人物であった。
Poco在籍中からハーモニー・ボーカルで客演を依頼される事が多く、Eaglesからマイズナーが抜けた後を埋めるのは彼しか居なかったと言える。
Pocoは1968年、"リッチー・フューレイを中心に結成されたが、しばらくは彼が思い描いたような結果が出ず気落ちしていたところ、ゲフィンからJD・サウザー、クリス・ヒルマンとのトリオ結成の誘いを受け(CS&Nのようなスーパー・グループにしたかったようである)、1973年に脱退してしまった。
epicレーベルとのレコード・リリース契約が3枚残っていたので残された4人のメンバーで続行した訳だが、野心家がおらず、お互いにストレスにならないように活動していたように伺える。
そうしたストレス・フリーな面が表面に醸し出されたのか、チャートを賑わすヒットは無いが一定のファン層があったようである。
大学で心理学を専攻していたとの情報もあり、心理描写による作詞を得意としている。
ストレスが多いEaglesの中で重責を果たしながら上手く泳いでいるような印象を受ける。
詳細はこちらのESSAYも参照下さい。

 ドン・フェルダーについてはその4:Bill Szymczykの憶い?で触れます。

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その4:Bill Szymczykの憶い?

 ビル・シムチクはミシガン州マスケゴンで1943年2月13日に生まれ、ウィキペディアによると、
少年時代、鉱石ラジオのキットを組み立て、遥かテネシー州ナッシュビルの放送局の電波を捉えてブルーズやR&Bに興味を覚えたという。
1960年代は海軍に入隊、ソナー(音波探査)技術者として任務に就き、除隊後はニューヨーク大学でメディア・アートを学ぶ。
プロデューサー&シンガー・ソングライターのクインシー・ジョーンズの補佐として録音技術を学び、Hit Factoryレコーディング・スタジオのチーフ・エンジニアに就く。
その後、ABCレコードに移り、プロデューサーに転業、BBキングの1969年のライブアルバム"Live & Well"のプロデュースで成功を収める。
1971年からJames Gang、ジョー・ウォルシュのソロ・アルバムプロデュースを経てEaglesの3作目"On The Border"の途中からグリン・ジョーンズの後を引き継ぐ。
このように、彼はミュージシャンの経験は無く、エンジニアが天職であったようである。

 彼がJames Gang、ウォルシュをプロデュースした1970年代初期の多重録音は16トラックの時代を迎え、シムチクは"プロのリスナー"を自称し、リスナーの立場で"こういうふうに聴こえたらいい"をモットーとしていたとの事。
そこで、Eaglesの録音では4人のハーモニー・ボーカルパートは個別に4つのトラックに録音し、ミックス・ダウンの際に意のままにバランス、ブレンドしたとの事。
仮に4声のハーモニー・ボーカルパートを4人集まって1(モノラル)又は2(ステレオ)トラックで一発録りすると、声質によっては一人だけが浮いたり、沈んでしまうと修正が効かない。
例えば、トップパートのマイズナーの声質は高音成分が強い金属的なトーンなので目立ちやすい。
また、個別のトラックに録音するならば4人全員が揃う必要はなく、最初の基本パートを一人が録音し、各パートを一人ずつオーバー・ダビングしていっても良い。
当時、コーラス・グループを除くとステージで4声のボーカル・ハーモニーを実践できたのはPocoとEaglesしか見当たらなかった。
筆者は甲乙つけ難いが、アイロン掛けに喩えればEaglesの方がシワ一つなく仕上がっているように感じる。これは、"Hotel California"の"New Kid In Town"を聴く度に感じる事である。(この時は24トラック)
この曲はフライの作曲、リードボーカルだがバックコーラスについては編集時にシムチクは4人の声質の個性をあえて抑えて均質に揃えたように感じる。つまり生まれつき声質が同じ4人兄弟のバックコーラスという感じである。
そこまでやるか?という気がしないでもないが、"Hotel California"のグラミー賞のレコード・オブ・ジ・イヤーに加えてこの曲はBest Arrangement for Voices部門も受賞している。
これは1977年にCS&Nがリリースした2作目のアルバムのハーモニーが3人の声質を活かした仕上がりになっているのと比べると好みが分かれるところかもしれない。

脱輪:
 ダン・フォーゲルバーグは別名、"一人CSN&Y"、"一人Eagles"と呼ばれていた。
彼はスタジオ入りするとリード・ボーカルを録音し、最後にハーモニー・ボーカルを各パートずつ入れて行く事になる。4声なら完璧な4つ子のハーモニーになる訳である。
ミックス・ダウンはエンジニアと二人きりで気力が尽きるまで綿密に行う。
その代わりスタジオに入っている総時間は長くなり、使用料は膨れ上がる。
因みに1974年にリリースされた2作目"Souvenirs"はジョー・ウォルシュがプロデュースし、4人のエンジニアのうち一人がシムチク、Eaglesのフライ、ヘンリー、マイズナー、ウォルシュ、CS&Nからグラハム・ナッシュがハーモニー・ボーカルで参加している。
こうしたケースではゲスト・プレーヤーに敬意を表して誰の声か判るように声質の抑制は控えるようである。

 3作目のアルバム"On The Boeder"でシムチクがジョーンズの後を引き継いだ件については、メンバーがカントリー・ロックではなくハード・ロック志向のプロデュースを期待していたと伝えられている。
ジョーンズのプロデュースは"You Never Cry Like a Lover" と "Best of My Love"の2曲であるが、後者がEaglesに初のNo.1ヒットをもたらしたのは皮肉であろうか?
因みにこの曲で聴かれるペダル・スティールはバーニー・レドンである。
とは言うものの、"Midnight Flyer"にはバンジョー、"My Man"、"Ol' '55"の2曲にもペダル・スティールが入っている。
本心はカントリー・ロックを捨てたくないのだが、ハード・ロックも保険として入れておきたいという思惑だったのかもしれない。
"Ol' '55"はTom Waitsの作品だが、ゲフィンがフライに聴かせたところ気に入ったとのこと。筆者が最初に聴いた時にはフライの作品と思っていた次第である。
因みにこちらのペダル・スティールはShiloh、Flying Burrito Brothers、スティブン・スティルスのManassas、Souther Hillman Furay Bandを経ていたAl Perkinsであり、レドンと比べると本家ナッシュビル風味を感じる。

 さてその保険だが、なるほどシムチクが携わったJames Gangやジョー・ウォルシュの音造りである。ハーモニー・ボーカルやギターにはジョーンズのようにリバーブ処理は行わず、乾いたサウンドである。("Midnight Flyer"のエレキ・リードにはリバーブを掛けている例外も見られる)
そして1970年代のハード・ロックを象徴するようなギター・サウンドである。

 1967年頃からスタジオでは意識的に弦を抑えてカットするまではいつまでもサステインが続くような音響処理が現れ、1969年にはCreamの"White Room"で一躍脚光を浴び、SantanaやGuess Whoなど、瞬く間に拡散していった。
1970年代に入るとステージで同様の処理をギタリスト自身が行える携帯イフェクター類〜様々な効果がバリエーションとして加わり、ギタリストの足元にはイフェクターが所狭しと並ぶようになった。
ギタリストのニーズに先行してイフェクター・メーカーがバリエーションを提供するようになり、ギタリストはそれを自分流にセットアップしたり組み合わせたりして、当時のリスナーは次々に現れる新しいギター・サウンドに目を見張ったものである。
1974年の"On The Boeder"の頃になると、プロデューサーもそうして生まれたサウンドの中から自分の狙いに沿うものを選択するようになり、"あの曲のこの音"という引き出しが増えていった時代と言えるかもしれない。
シムチクもこのアルバムではメンバーと相談しながらどんなイフェクターを選ぶか決めていったようだが、ウォルシュが重要なサジェスチョンを与えていたのではないかと思われる。
このアルバム・セッションにドン・フェルダーがスライド・ギターで呼ばれるが、イフェクター込みの様々な演奏テクニックはハード・ロック化するには強力な助っ人だったようである。
ところで、"My Man"のペダルスティールにはダブリング(コーラス)のイフェクターが掛かっているように聴こえる。

 ドン・フェルダーはフロリダ州ゲインズビルで1947年9月21日に生まれ、ウィキペディアによるとレドンとはゲインズビル高校で一緒だったとの事。
13歳でスティブン・スティルスらのバンドに参加し、スティルスはその後レドンと入れ替わっている。
リード・ギターはテープ・レコーダーを1/2の速度(オクターブ低くなる)で再生してフレーズを聴き取る方法で独習したとの事。
また、地元の楽器店でギターを教えていた事があり、スライド・ギターをデュアン・オールマンから教わり、若きトム・ペティを教えていたとの事。
バンジョー、マンドリン、ペダル・スティールもこなす事から、レドンにとっては商売敵であった事になる。
幸い、ハード・ロックやフュージョン系の演奏を得意にしていたので、"On The Boeder"、"One of These Nights"ではレドンと被る事は無かったが、 レドン脱退後はステージでマンドリンやペダル・スティールを担当している。

 4作目のアルバム"One of These Nights"ではシムチクは新しいアイデアを実践している。
冒頭のタイトル曲だが、同時に聴こえるギターを数えてみると、9本による重厚なギター・アンサンブルである。
・イントロからエンディングまでベースが2本
・そこに被さるリズム・ギターAが1本
・そこに被さるリードギターはトリプルで3本
・ヘンリーのボーカルが始まるとリズム・ギターBが追加
・サビの部分でコード・ストロークのギターが1本
・間奏のリード・ギター・ソロで1本
である。
そしてヘンリ―のリード・ボーカル+バック・コーラスで4声である。
こうして数えてみるとギターとボーカルだけで13トラックが必要になる。
仮にドラムセットの基本8パーツ全てにトラックを割り当てたとすると21トラック。
そこにボーカルと供にピアノも入って来るので総計22トラック。 確かに24トラックが導入されたとしても2トラックしか残っていない。
ここまで細分化するとドラムセットだけでもミックスダウンは大変な作業になる。
シムチクはどこまで拘ったか判らないが、ドラムセットは助手が大まかな作業をしてから仕上げはシムチクが行うのかもしれない。
イントロのリズム・ギターAとトリプル・リードギターのアイデアはR&B風のホーンセクションをギターに置き換えたと言えるかもしれない。

 そしてバック・コーラスだがファルセット=裏声が登場する。
Bee Geesも1975年にアトランティック・レコードのArif Mardinがプロデュースした13作目のアルバム"Main Course"で同様の試みをしており、いずれも成功していると言えよう。
ウィキペディアによると、どちらもマイアミのクライテリア・スタジオを使っており、録音はEaglesが1974年末〜1975年、Bee Geesが1975年1月〜2月と重なっている。
Bee Geesはこのアルバムで"Nights on Broadway"、"Jive Talkin'"がヒットし、"One of These Nights"と供にファルセット・ハーモニーがそれまでの両者のイメージをガラリと変えてしまたと言えるかもしれない。 いわゆるディスコ調と言えば良いであろうか?
ファルセットのアイデアはどちらが先か気になるが、今のところ確証が得られる情報はネットから得られていない。
Bee Geesは" Barry, Robin, and Maurice Gibb."の3人兄弟であり、弟の2人は双子であることから、デビュー当時からハーモニー・ボーカルのスムーズさは定評があった。
天性の揃った声質に対して、もし仮に声質が異なる4声ハーモニーのEaglesがこれに迫ろうとした場合、考えられる方法としてはキーを高くしてそれぞれの声質を左右している倍音成分を人間が聴こえない高い周波数域に持って行ってしまえば良い。
4人の中で高いキーで歌えるのはマイズナー、ヘンリーであるが、"One of These Nights"をヘンリーがリード・ボーカルを取った場合、そこに被せるバックコーラスはかなり高音になってしまう。
これは想像だが、メンバーの誰かが裏声で歌ってみたところ楽になるし、Beach BoysでもMiraclesでもないね、という具合だったのではないか?
只、Bee GeesがヒットしたおかげでEaglesもディスコ調のイメージを背負わされてしまったような気もする。
ファルセット・ハーモニーはこの曲だけで終わったのは正解だったのかもしれない。

 "One of These Nights"のNo.1ヒットのおかげでEaglesを初めて聴いたリスナーはカントリー・ロックから出発したとは思えないかもしれない。
フライやヘンリーは食って行けるようになったが随分遠くまで来てしまったと感じただろうか?
"Hollywood Waltz"、"Lyin' Eyes"、"Take It to the Limit"のようなカントリー・ロック・ナンバーは、いつでも帰る家があるという事だったのかもしれない。
"After the Thrill Is Gone"もヘンリー&フライ・コンビによるバラードだが、ペダル・スティールを入れておくところは手抜かりが無い。但し、シムチクもかつてジョーンズがやったようなリバーブを掛けているのは面白い。

 "Journey of the Sorcerer"はレドンのバンジョーの独壇場と言える。曲のエンディング近くになるとブルーグラスの故郷、アパラチアンのダンス・チューンを思わせるフィドルが入って来てフェードアウトしてゆく。
アウトローの時代は去ったようにいずれカントリー・ロックの時代も終わる。そうなっても何十年も経ってから"One of These Nights"を再生したら、何やらカントリー・ロックなる化石が出てきたという憶いだったのかもしれない。

 5作目のアルバム"Hotel California"はグラミー賞を取ったわけだが、シムチクもメンバーも気力のピークだったようである。
冒頭のタイトル曲は1970年代のギター・サウンドの結晶とも言えるかもしれない。
再び、同時に聴こえるギターを数えてみると"One of These Nights"の9本には及ばないが8本。
・イントロからエンディングまで12弦アコギ+6弦アコギで2本
・イントロの繰り返しから6弦エレキで1本
・ヘンリーのボーカルが始まるとベースが1本
・ボーカルの2節目から6弦のツイン・伴奏で2本
・4節目からツイン・リードで2本
である。
イントロの12弦アコギとフェードインで被さって来る不協和音を誘う6弦アコギのアルペジオはツェッペリンが始まるのか?と思わせ、レゲエのリズムによるベース・パートはサステインが無いのでギター・サウンドの余韻の邪魔にならない。
ウォルシュとフェルダーのリードは個性が異なるのでそれを聴かせるべく、交互に振り分けている。
最後は"伝説の?”ツイン・リードで締めくくる。
ここにはもはやカントリー・ロックのかけらも見当たらない。
しかしながら、フライの"New Kid in Town"は悪い夢から覚めていつもの平安な街の佇まいが見えたかのようにホッとさせられる。
続く、Life in the Fast Lane"、"Victim of Love"のようなハードな楽曲と、ストリングス・アレンジメントと対になった"Wasted Time"、ウォルシュの"Pretty Maids All in a Row"と言ったソフトな楽曲の緩急が心憎い。
ウォルシュの曲だが、ギター巧者の作品とは思えない感傷的なバック・コーラスはファースト・アルバムの"Most of Us Are Sad"のそれに似て、筆者はセピア色の卒業写真を連想してしまう。
続いてマイズナーの個性溢れる"Try and Love Again"で気を取り直し、最後はヘンリー&フライ・コンビによるペダル・スティールを入れた"The Last Resort"で締めくくる。
1979年に初めて聴いた当時、筆者にはかつて愛したカントリー・ロックを送る葬送曲のように聴こえてしまった事を思い出す。

 6作目のアルバム"The Long Run"はリアルタイムに聴いた初めてのアルバムであった。
もはやカントリー・ロックの看板は降りており、このような楽曲をAORと言うのだろうか?と思いながら聴いたものである。
ここはJoshua Treeの砂漠ではなく街に帰って来たんだな....
Pocoから移籍したティモシー・シュミットの"I Can't Tell You Why"は好きな曲だが、Pocoの曲と言われても気が付かなかったかもしれない。
Pocoの1971年の4作目のアルバム"From The Inside"のタイトル曲に源流があるように思えた。
そしてハーモニー・ボーカルはPoco時代や、ランディ・マイズナーが居た頃よりスムースな感じに仕上がっている。
前述のようにマイズナーの声は高音成分が強く、良く通るいわゆる"八百屋声"なのに対して、シュミットの声はニュートラルな甘いトーン、男性、女性ボーカルを問わず相性が良いので、マイズナーが抜けた穴を埋めて更にAORにふさわしいハーモニーを獲得したように思う。
ウォルシュ作の"In The City"だが、バック・コーラス"Whooo"はベルベットのようにスムースで高層ビル群を吹き抜ける爽やかな風を連想してしまう。
アルバム・ラストの"The Sad Cafe"だが、煙が消えた後の焚火のほのかな温もりのような、カントリー・ロック時代の走馬灯のように感じられたものである。
もし、イントロのキーボードがアコギのアルペジオで、マンドリンが添えてあれば....

 7作目は初のライブ・アルバムだが、Steve Young作の"Seven Bridges Road"がカントリー・ロック・ファンにはオアシスかもしれない。
ぴたりと息の合ったアカペラで始まりアコギの軽快なストロークは"On The Border"あたりに入っていてもおかしくないと思った。
1976年10月〜1980年7月に掛けて録音された音源で構成されているとの事。
この時代はエレキ楽器は直接、アコースティック楽器やドラム、ボーカルはマルチ・マイクロフォンで拾ってミキサーに接続し、リハーサルではスタジオ・アルバムと同質に聴こえるようにエンジニアがミキシング卓に仕込み、本番では会場のどこでも均一に聴こえる事を目的にしたPAシステムのスピーカーから客席に届けられる。
ライブ・アルバム制作に備えて同時にマルチ・トラック・レコーダーに録音され、ミックス・ダウン〜編集は後日スタジオで時間を掛けて入念に行うというやり方になっていた。
例えば、客席に置かれた専用のステレオ・マイクロフォンで録音した観客の拍手や手拍子を被せてライブの臨場感を再現する。
もし、メンバーから"あそこミスしちゃったけど、なんとかならない?"と電話があれば、後日その部分だけスタジオで録り直して差し替える。
なんとも痒い処に手が届くと言ったらよいだろうか?
シムチクが腕を振るった様子が想像されるが、これがEaglesをプロデュースした最後の仕事になった。

脱輪:
 ウッドストックのような1969年頃のライブ・ステージでは楽器もボーカルも演奏者の背後のアンプ&スピーカーで増幅され、大音量で客席に向けて放たれていた。
音量バランスはリハーサル時にそれぞれのアンプのボリュームを調整したら固定し、本番は原則としてアクシデントが無い限りいじらないというやり方であった。
しかしながら、CS&Nのように多声のハーモニー・ボーカルをやる場合、静かな部屋やスタジオならば相手と自分の生の声を聞きながらハモる事が出来るが、 大きな会場や野外ステージとなると各人のボーカルが背後にある別々のスピーカーから大音量で放たれるので、自分のパートが他のパートとずれていないかと言う不確かさを感じていた。
また難聴のリスクが指摘され、ロック・ミュージシャンの職業病にもなっていた。
そうした彼らの意見が反映され、マイクで拾ったボーカルをミキサーで一端ミキシングし、彼らの足元に専用のスピーカーを置いて返すというやり方が現れた。
これが楽器を含めたバンド全体の音響バランスを整えるという形に拡大し、演奏者と客席の両方に返すようになったのがPA=Public Adressシステムである。
多重録音を駆使したスタジオ録音から生まれた副産物と言えるかもしれない。

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その5:エデンからの道は何処へ向かう?

 8作目のアルバムは1994年の再結成を機にリリースされた"Hell Freezes Over"である。
プロデュースはEagles自身とElliot Scheiner、Rob Jacobs、"Learn to Be Still" のみヘンリーと共作したStan Lynchである。
すでに大成功を納めたアーティストとなるとそれを維持できるか、あるいはそれを超える作品をモノに出来るか?失敗すれば...?となると名乗りを上げるプロデューサーは限られてくるように思う。
ウィキペディアによれば、"The Long Run"リリース後にヘンリーは"全てを出し尽くしてしまった。疲れ切った。"と語ったとの事。
解散後、14年が経っている事もあり、このアルバムはEagles自身でプロデュースするしかなかったのかもしれない。
4曲の新曲とライブの組み合わせだが、新曲の中のメンバー以外の作品"Love Will Keep Us Alive" はシュミットのリードボーカルなので、これもPocoで聴かれそうな楽曲である。
"Learn to Be Still"はTom Petty and the Heartbreakersのドラマーとして80〜90年代を生き抜いてきたStan Lynchのプロデュースだが、この時代はシンセサイザーは旋律を奏でるだけでなくサウンド・イフェクトとしても使われるようになり、煙が漂うような音作りになっている。
しかしながら、筆者はペダル・スティールでこれを表現したらと夢想してしまった。
かつて"忌々しいカントリー・ロック時代”と発言していたヘンリーは、ロック・ボーカリストとしてのスタンスをものにしたようだが、今でもJoshua Treeの砂漠に車を走らせる事はあるのだろうか?

 全編スタジオ・アルバムとしては"The Long Run"に続く7作目"Long Road Out of Eden"は2007年にリリースされたが、録音は2001〜2007年となっている。
ここまで来ると"Eagles博物館"という言葉が頭に浮かんでしまった。テーマパークと言った方が本人達には失礼が無いかもしれない。
あるいは、どの曲も"Eagles印"がくっきり押された老舗が並ぶ名店街と言う風情だろうか?
プロデュースはEagles自身だが、今度は自分達が今まで築いて来て勝手が判っているという事かもしれない。
4人のCo・プロデューサーがクレジットされているが、シムチクの名前も見られる。

 筆者がいいなと思う曲を上げてみると、
"No More Walks in the Wood"
"What Do I Do with My Heart"
"I Don't Want to Hear Any More"
"Waiting in the Weeds" マンドリンが聴こえる。
"No More Cloudy Days"
"Do Something" ペダル・スティールが聴こえる。
"You Are Not Alone"
"I Love to Watch a Woman Dance" マンドリン、アコーディオンが聴こえる。
"Center of the Universe"
"It's Your World Now" このメキシカンは"Tequila Sunrise"の続編か?
と言ったところである。

 こんな事を考えてしまった。
これらの楽曲も始まりはメンバーがギターを伴奏に自宅のパソコンやスマート・フォンに入れた"デモ音源"と思われる。
それを聴けば70年代にラジ・カセに録音した"デモ・テープ"とそれほど変わらないのではないか?
そこに記録されているのは磨かれるべき原石、スピリッツ、エッセンスと言えるかもしれない。
そして4声の素晴らしいハーモニー・ボーカルも健在である。
ならば、レドンを呼んできてバンジョーやドブロを録音してリミックスすれば"Desperado"の頃のカントリー・ロックが再現出来るのではないか?
録音から、ミックス・ダウン〜マスタリングまでデジタルだから昔のようにテープの劣化を気にする必要は無い。
グリン・ジョーンズはやってみる気力はあるだろうか?

脱輪:
 ヘンリー&Smithのコンビによる"Business as Usual"だが、筆者は60年代の日本のグループ・サウンズ=GSを連想してしまった。
このようなコード進行の曲が溢れていたものである。
そして多機能なイフェクターではなく古典的なエコーを効かせた(今流に評せばチープな)エレキ・ギターも当時よく見られたものである。
当時のGSは演奏はエレキ・ギターだが、楽曲は歌謡曲であった。
そうした日本のカレー・ライスのような味わいを感じてしまったのである。
筆者は60年代後半の歌謡曲に見られるコード進行(特にムード歌謡と呼ばれていたが)は、60年代初期のタンゴ・ブームから来ているように思うのだが?
Youtubeを検索していると南米や東欧でも日本の歌謡曲に良く似た楽曲が聴かれ、あれっ?と思う事がある。
つまり源流はラテン〜スペイン文化と見ると、地球の周りを10年〜20年という周期でゆっくり回っているのかもしれない。

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おわりに:

 2022年10月、今からおよそ半世紀前の60年代から70年代に掛けて興ったカントリー・ロック・ムーブメントがカントリー・ミュージックの本家、ナッシュビルにあるカントリー・ミュージックの殿堂博物館の定期的な企画展示として公開された。
"Western Edge"なるタイトルが付けられているのだが、南部はテネシー州ナッシュビルから見れば西の果て、ロス・アンジェルスという意味と、かつてカウボーイの愛唱歌のようなジャンルと対にしてカントリー&ウェスタンと呼ばれていた時代があった事を考えると、ウェスタン志向という意味があるように思う。
まさにEaglesの2作目"Desperado"はそれではなかったか?


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